親しみと不気味さの境界線

この記事の要点
- 機械が人間に近づくほど好感は増すが、ある一線を越えると急に不気味さへ転じる。
- 森政弘が一九七〇年に提唱した「不気味の谷」は、この急落を表した古典的な見立てだ。
- 谷は外見だけでなく、声の抑揚や応答の間など、振る舞いの自然さにも現れる。
- 不気味さは欠陥ではなく、人が相手の「人間らしさ」を測る感覚が働いている証でもある。
合成音声が、あまりに自然に話すと、かえって落ち着かなくなる瞬間がある。明らかに機械とわかる平板な声には、何も感じない。ところが、抑揚も間も人間そっくりなのに、どこか一点だけ妙にずれている声を聞くと、背筋にひやりとしたものが走る。似ているのに、何かが違う。この居心地の悪さには、半世紀前につけられた名前がある。
ロボット工学者の森政弘は、一九七〇年に「不気味の谷」という見立てを示した。機械や人形が人間に似てくると、最初は好感が増していく。ところが、似かたがある程度を越えると、好感は突然、急な谷へと落ち込む。そしてさらに似て、ほとんど人間と区別がつかなくなると、好感はふたたび回復する。この急落の区間が、谷と呼ばれる。蝋人形や、よくできた義手に対して感じる、あのかすかな不安が、谷の典型例として挙げられてきた。
谷は、外見だけのものではない
森の議論でとくに重要なのは、動きが加わると谷がいっそう深くなる、という指摘だ。静止した人形より、ぎこちなく動く人形のほうが不気味さは増す。これは、現在の音声やチャットのインターフェースにそのまま当てはまる。外見を持たない声や文字でも、振る舞いの自然さに谷は現れるのだ。声の抑揚、応答までの間、言葉の選び方。それらが人間に近づくほど好かれ、しかし一点だけ不自然だと、急に薄気味悪くなる。
たとえば、こちらの問いに対して、人間ならありえない速さで完璧な敬語を返してくる応答。あるいは、感情をこめたように見えて、その感情のかかり方がどこかずれている語り。技術としては高度な振る舞いが、人間らしさの一線を越えそうで越えないとき、谷が口を開ける。機械に心を見てしまう働きが、ここでは逆向きに作用する。心を見ようとした矢先に、その心の不在をふと感じてしまうのだ。
不気味さは、感覚が働いている証拠
不気味の谷を、克服すべき技術的な欠点として語る向きもある。もっと自然にすれば谷を越えられる、と。だが、見方を変えれば、この不気味さは人間の感覚が正常に働いている証でもある。人は、相手が本当に人間かどうかを、ごくわずかな手がかりから絶えず見積もっている。その見積もりの精度が高いからこそ、似て非なるものに違和感を覚える。谷は、鈍さの表れではなく、鋭さの表れなのだ。
一方で、谷の深さや位置は、文化や慣れによっても動くらしい。森自身、谷の手前に好感の高まる領域があると論じ、必ずしも人間そっくりを目指すことだけが正解ではないと示唆した。実際、はっきり機械とわかるデザインのほうが、かえって安心して使えることもある。人間に似せきろうとして谷に落ちるくらいなら、谷の手前に踏みとどまる、という選択もある。
越えるより、避けるという設計
音声や対話のインターフェースを作るとき、自然さを上げることは、ほとんど無条件に良いこととされがちだ。だが不気味の谷は、その前提に注意を促す。自然さは、ある区間では好感を生むが、別の区間では不安を生む。どこを目指すかを、谷の地形を踏まえて選ばなければならない。
機械らしさをあえて残す。完璧さを少し崩す。人間に似せきる手前で止める。これらは技術の後退ではなく、人の感覚に合わせた距離の取り方だ。人が機械に礼儀を向けるのは、相手をほどよく人間扱いできているからで、谷に落ちた相手には、その礼儀すら向きにくい。親しみと不気味さは地続きで、その境目は、技術の高さではなく、人の感覚が引いている。設計が読むべきは、性能の目盛りではなく、この感覚の地形のほうである。
参照・出典
- 森政弘「不気味の谷」『Energy』第7巻第4号、1970年。ロボットと人間の類似度をめぐる古典的論考。
- Masahiro Mori(translated by Karl F. MacDorman, Norri Kageki)「The Uncanny Valley」IEEE Robotics & Automation Magazine, 2012. 英訳・解説。